ペレス・プラードは1989年9月14日になくなりました。享年72歳。
葬儀はメキシコシティーで行われ、たくさんのペレス・プラードファンに見送られました。
葬儀では、主人亡き後のペレス・プラード楽団が彼の名曲を演奏し、ファンが踊りながらペレス・プラードの功績を讃えました。
ペレス・プラードは1916年12月11日にキューバの港町マタンサスで生まれました。
ペレス・プラードはキューバの首都ハバナに移り音楽活動を行いますが、その後メキシコシティーに音楽活動の拠点を移します。
というのも、ペレス・プラードはキューバ時代、数々のレコーディングに参加していますが、彼のアイディアであるペレス・プラードの個性的なマンボは、キューバでは受け入れられませんでした。そこで、ラテン音楽の中心地のメキシコシティーに移り、彼のアイディアによる彼の音楽「マンボ」をレコーディングしました。
彼のトレードマークとなる「うっ!」で有名なサウンドがメキシコシティーから世界へと発信され、メキシコはもちろん、アメリカ、ヨーロッパそして日本で大ブームが起こったのです。
当時、他のミュージシャンが演奏するマンボやマンボ以外のラテンリズムは、トランペットやバイオリンがメロディーを奏でアンサンブルし、ラテンパーカッションがリズムを刻む役割でした。
しかしペレス・プラードは、当時流行っていた大所帯のアメリカのビックバンドジャズスタイルを取り入れ、さらにトランペットやサックスなどの本来メロディーを奏でる楽器陣にリズムを刻ませ、そこに複雑なリズムのラテンパーカッションをミックスしました。彼の「うっ!!」の叫び声が響き渡るマンボは、当時としては斬新なアイディアでした。
メキシコシティーに移ったペレス・プラードが、メキシコRCAで最初にレコーディングした曲は「ホセ」で、1949年4月5日のことです。
同年、ペレス・プラード作曲の『エル・マンボ(原題:Que Rico El Mambo)』がメキシコでヒット。アメリカRCAからも発売され(アメリカではマンボ・ジャンボという題名)、アメリカで400万枚のヒットを記録しました。
ペレス・プラードはその後アメリカに音楽活動の拠点を移し、「セレソ・ローサ」や「パトリシア」などのヒットを飛ばし、世界中でツアーを行いました。
再びメキシコシティーに拠点を移したのは、1970年代のことです。
「私の音楽を最も愛してくれる場所」
メキシコ芸能界に復帰したペレス・プラードはテレビを始め、数々のステージで往年のヒット曲を演奏し続けました。
ペレス・プラードはメキシコを愛し、そして大好きなメキシコの人々に見送られこの世をさりました。
私は、当時日本のテレビで訃報を知りました。中学生だった私は、大好きなペレス・プラードの音楽がステージで聴けなくなる…と、大変悲しくなったと同時にこれからの人生どうすればいいのだと(決して大げさではありません)心の中にポカンと穴が空きました。4歳の頃から聴いていたペレス・プラードの音楽。ペレス・プラードのマンボの血が流れている私にとって衝撃の日でした。
幸いなことにペレス・プラード楽団は存続し、1992年に2代目リーダー率いるペレス・プラード楽団のステージを初めて観る事が出来ました。
今ではペレス・プラード楽団にメンバー参加する機会も得られ、たくさんのファンの皆様とペレス・プラードの音楽を楽しむ事ができ、大変嬉しく光栄に思っています。
これからも、ペレス・プラードのマンボブームが再び起こることを祈りつつ活動を続けてまいります。
写真はペレス・プラードの墓石