2019年7月11日の日本経済新聞朝刊・文化面に私の記事が掲載されました。
ペレス・プラードのマンボとの出会いから、念願のペレス・プラード楽団メンバーとなるまでのお話しです。
以下、新聞記載の文章です。
チャッチャ、チャチャチャチャチャ「アァ~~うっ!」
情熱のリズムに気合満点の掛け声が入る。ラテンアメリカの音楽、マンボにはまってしまった。
20歳すぎから打楽器のコンガを習い、縁あって「マンボの王様」ペレス・プラード(1916~89年)が初代リーダーを務めたメキシコの「ペレス・プラード楽団」に参加。現地や日本で「マンボNo.5」などのリズムを刻むことができた。
きっかけは4歳の頃、自宅で聴いたレコードだ。プラード楽団演奏の「黒馬のマンボ」。打楽器とベースの刻むリズムが印象的な曲である。
初めて楽団の生演奏を聴いたのは高校生だった1992年。地元名古屋の会場だ。
マンボは20世紀前半のキューバで伝統的なリズム「ソン」と米国発のジャズが出合って生まれた音楽である。
キューバ出身で、米国、メキシコへと拠点を移したペレス・プラードのマンボは、高音のトランペットをリズム楽器のように使い、躍動感が尋常ではない。その楽団が目の前にいる。何とか直接話したい。
96年、ピアノ調律師として楽器店で働いていた頃に楽団が再来日し、チャンスが巡ってきた。
つてを頼り、2代目リーダーのベース奏者、ヘスース・ガルニカ・マルティネスさんに連絡先を沿えた手紙を渡した。舞台上で握手もできた。
数日後、何とガルニカさんから「会いましょう」と電話が入った。スペイン語の単語帳を見せながら「楽団のマンボが大好きです」と必死に思いを伝えたら、その後来日するたびに、お茶に呼ばれるようになった。
99年にはコンガの練習を始めた。日本を代表するマンボグループ「東京パノラママンボボーイズ」のパラダイス山元さんのもとで奏法を勉強。
2004年に楽団が来日した際、ガルニカさんに「一緒に楽団で演奏したい。メキシコに行って修業したい」と伝えた。答えは「いつでもおいで」。
私は仕事を辞め、06年にメキシコシティに飛んだ。
ガルニカさんの自宅に住み込んだ。打楽器の先生にコンガだけでなくボンゴ、ティンバレスなどの特訓を受け、観客の前での演奏にも挑戦した。
ガルニカさんらが慈善活動として貧困地区で開いているコンサート。麻薬や銃器の犯罪が多発する地区だ。最初はとても緊張したが、ボロボロの服をまとった子どもが集まって、楽しそうに演奏を聴いている。その姿に心がほぐれてきた。終了後、1人が「ありがとう」と握手をしてくれた。彼の小さな手のぬくもりは、今でも忘れない。
07年にはメキシコ北部のトレオン市での野外コンサートにも出演した。たどたどしいスペイン語で「日本から来ました」と自己紹介すると、みんな笑顔と拍手で応えてくれた。
メキシコでは演奏者と観客の距離がとても近い。楽団メンバーの庭で練習していると、近所の人たちがぞろぞろと集まってくる。即興のパーティーの始まりだ。練習が終わるとピザをつまみながら飲めや歌えの宴会になる。みんながマンボ音楽を楽しんで、生活の一部に取り込んでいる。
16年の楽団来日時には津市の会場で演奏に参加した。「あこがれの楽団の一員として、日本で演奏する」。長年の夢がかなった瞬間だった。
近年は小学校の出前授業でマンボ演奏をしている。ゆるキャラ「マンボくん」を作ってツイッター上にも公開した。
私が楽団やメキシコの人たちから受け取ったマンボ音楽の楽しさを、日本の人たちに渡していきたいと思っている。(よご・とものり=音楽家)
日本経済新聞 朝刊・文化面
2019年7月11日(木)より